今では全国的に無名である物井の地名も、歴史文献を辿っていくと意外なことにかなり古くから登場する。
初めて"物井"が登場する文献は、平安時代から約700年間に渡って房総地区を治めた千葉氏の盛衰などの口碑を記録した「改定・房総叢書」を、千葉氏の末裔である平雅胤氏が書写した「千葉実録」である。
この書の中に、
千葉氏二十二代孝胤千葉介、永正十八年辛巳八月十九日、六十三歳にて逝去。
法名・常輝眼阿弥陀仏。
長男 勝胤 小川次郎
次男 胤家 成戸右京進
三男 右馬助
この人(注:三男のこと)、印旛郡物井村に居住して物井殿という。(以下略)
とあり、この右馬助なる人物が物井村に在城していたとすれば、同地区に存在していた中世頃の築城と考えられている古屋城に在城していた可能性が高く、この推定に基づけば戦国時代の15世紀末期には既に物井という地名が存在していたことになる。
更に、漢学者・清宮秀堅(1809~1879)の代表作の1つ「下総国旧事考」には
物部郷、今印旛郡に物井村あり、是れなるべし。
とあり、"物部郷"が登場する最古の文献は、源 順(ミナモトノシタガウ)(911~983)が我が国で初めて編纂したと言われている国語辞典「和妙抄」で、その中に
下総国千葉郡 千葉・山家・池田・三枝・糟■・山梨・物部
の七郷が記述されている。(■は草かんむりに依)
物部がいつ頃から物井と呼称が変わったのか、さすがにこの辺になると素人には追跡不可能だが、いずれにせよ物井という地名のルーツが大昔にまで遡ることができることは想像に難くない。
また、物井地区は古くからの集落地であったため、小字が多いことが特徴の1つで、旧四街道町当時の地籍図を見ると、
新久・池花・稲荷塚・御山・小川・金鋳塚・北谷・北ノ作・栗木台・郷・小堤・小屋ノ内・小原台・嶋越・清水・新田・館ノ山・小屋ノ作・寺前・出口・中ノ久木・並木・不動谷・馬場・宝録台・八木原・山ノ越・矢崎中
の28字が記録されている。
なお、余談ではあるが、一般的に町内会と呼ばれている住民自治組織が物井地区にもあり、当地では物井区会と呼んでいる。
物井区会は組によって組織され、組の名前には小字を冠したもの(新久組・清水組・新田組・郷南組・郷西組・馬場組など)が多く、その他には物井駅が昔の停車場だったことから、駅近辺の組は停車場組といったように、日常に於いても物井の歴史を垣間見ることができる。